やさしいこと、美徳として取り上げられること、多いですよね。とはいえ、やさしいだけではうまくいかないことも多く、時には非情になることも必要でしょう。ここでは、やさしくなれない場合とその時の心持ちについて考えてみます。
自分の利益を優先しなくてはならないこともある
時として自分や自分の周りの人たちの利益を優先し、その他の人にはやさしくできないことがあります。自分とその人に対する利益が相反する、ことですね。
例えば、試験であれば、自分が合格することにより、他の人は不合格になることがあります。それとか、友人にお金を貸してかえって来ないようなときに、自分ひとりであればお金を取り戻さない、ということもあるのですが、家族がいるのであれば家族の生活のために、心を鬼にして友人からお金をとりかえす、ということもあるでしょう。
このように、自分の利益を守るためには時には人にやさしくなれない、ということがあります。特に、自分ひとりだといいけども、守るべき人を持っていると、やさしいだけではやっていない、面がでてきます。
全体の秩序を守るため
全体の秩序を守るため、特定の人に対して厳しい処分を行うことがあります。特に、これは上の立場に立つとこういったことをせざるを得ないことが多いです。三国志に出てくる、諸葛亮が行った「泣いて馬謖を斬る」という話も、個人としてはしたくはないことを、全体の秩序を考えてこういったことを執行せざるを得ないことがあります。
心の中にやさしさ、哀しみをもっていたい
確かに、時としてやさしくなれないとき、というのもあるでしょう。とはいえ、やさしくないことをした場合には、そのことに痛みを感じることができるようにはなっていたい。高校や大学の試験が終わり、入学や卒業のタイミングで、よく先生が「合格、おめでとう。しかし、君たちが合格した裏には不合格で泣いた人もいる。そういった人の気持ちを忘れてはならない。」というようなことですよね。先にあげた、三国志の話でも「泣いて」いるわけなので、厳しい処分はしたけども、そのことに対する心の痛みは持っていることです。
このように、時にはやさしくできないことがあっても、そのことに対する心の痛みをもっておきたい、そう、思います。
まとめ
どうしても人に厳しくせざるをえないときもあります。でも、その時に心の中では痛みを感じておく、それが、今後の行動やなにかにも生きてくると思います。
ちなみに、本ブログのタイトルはフィリップマーロウの”If I wasn’t hard, I wouldn’t be alive. If I couldn’t ever be gentle, I wouldn’t deserve to be alive.”をもとにつけています。もちろん、全く同じではないですよ。