話の流れで「みんながしている。」、「みんなが言っている。」という展開になることが時折ありますよね。一見、説得力がありそうですが、実はそこに惑わされないほうがいい、というお話です。
「みんな」、実際は誰だ?
みんなが言っている、みんなが言っている、では、みんなって誰ですか、という話です。物事の信頼性は「誰が言っているか。」ということと、「何人程度の人が言っているか。」で信頼性が異なってきます。
「誰が」、という面であれば、そのことの専門家や自分が信頼をおいている人であれば、信頼する価値はあります。他方、よくわかっていない人や信頼できない人の言動は無視したほうがいいようなケースもあるでしょう。人数であれば、2人なのか、10人なのか、100人なのかでやっぱり違ってきますよね。
でも、「みんな」というとその部分が全く見えなくなり、本当に信用に足るのか、微妙といえます。言っている人は100人に対して聞き取り調査をしている、というわけではなく、2~3人が言っていることを「みんな」と言っているのだろうな、という気もします。
根拠はなんでしょうか
みんなが言っている、というと明確な根拠はありますか、、ということです。たとえ、100人が言っていても、1,000人が言っていたとしても、その根拠が曖昧だ、ということはよくあることです。時としてみんなが誤ったことを言っている、ということもあながちありえない話ではありません。この極端な例として流言蜚語、風評被害、デマの拡散ということがあります。
そのため、「みんなが言っている」、というときに、言っている内容の根拠ということには注意する必要があります。みんながみんな、誤っている、ということも往々にしてあるので。
自分はどうしたいのか
本当にみんなしていて根拠もある、といった場合でも、自分がそれをするのか、ということは別の問題でしょう。別にみんながしていても、自分は信じない、しない、という選択肢もあるはずです。
例えば、世の中ではテレビを持っている人はたくさんいますが、持っていない人もいます。みんながテレビを持っているから持つ、というのではなく自分の価値観、趣味、必要性に照らしてテレビを持つかどうか判断すべきでしょう。持たなくてもほとんど困ることはないですしね。
また、ビジネスや投資の世界ではみんながやっていることより、やっていないことをやったほうが価値があったりもします。つまり、往々にしてみんな同じことをやって激しい競争に巻き込まれみんなが疲弊しきってしまう、ということ、よくあることです。逆に、人がやらない領域で自分の独自性を確立しそれが競争力の源泉となる、ということもあるでしょう。
このようにみんながやっているから自分もやる、とは、必ずしもいえず、そこは自分なりの価値感や考えを持つことが必要だといえます。
まとめ
よく「みんなが。」、「みんなが。」ということを聞きます。一見、受け入れてしまいがちですが、話者、根拠、自分ということを照らして「みんな」の意見に従うかどうか、よくよく考えたいものです。