念仏主義、これは、ぼくが大学の頃に社会学の授業で習ったことです。割と、大学生で習ったことは忘却の彼方にあることがほとんどですが、この言葉はよく覚えています。今でも、念仏主義を感じること、考えることがあります。ということで今回は念仏主義について考えてみます。
念仏主義、というのは、念仏を唱えるがごとく「〇〇反対」、「○○をやめよう!」ということ。具体的には、「いじめをやめよう」「差別をやめよう」「戦争をやめよう」と正しいことを連呼することを指します。
もっと、直近でぼくが怒りを持って「念仏主義」を感じることとして、コロナのおり、特に最近はお盆でしたが、政治家の人がこぞって「県境を越えないようにしましょう」「不要不急の旅行、帰省はやめましょう」と言っているだでで、実効性のある政策はしなかったことでしょう。
念仏主義、何が問題なのか、というと、やめようやめよう、言ったところで、なくならないでしょ、ということ。いじめをやめよう、なくなりましたか?差別をやめよう、なくなりましたか?戦争をやめよう、なくなりましたか?といえば、なくなって無いでしょ、となります。
それと、コロナの県境を超える移動を控えることもそう。結局、これ、控えましたか?控えた人もいるとは思うものの、控えていない人も結構多かったのでは。それが元で、地方では感染が拡大したと考えます。こんなことは年末年始、ゴールデンウィークでもそうだったので、夏休みは何かしら実効的な手を打って欲しいなー、と思ったのですが、結局、そうはならなかったのが残念です。
ちょっと、例が長くなりましたが、結局、「やめよう、やめよう」と唱えるだけでは、問題は解決しない、ということです。もちろん、全く、効果が無いわけでは無いですが、限度というものはあります。いじめでも、差別でも、戦争でもやっている人にはそれなりの必然性があるので。必要なことは、その必然性を消していくこと、もちろん原因分析的なアプローチもあるでしょうし、実力行使的なこともあるでしょう。そういった、手を取らないと、そう簡単には問題は解決しないわけです。
というわけで、念仏主義、言っているだけではダメなので、そのほか、もう少し実効的な手を考え、それを遂行していく、ということが必要です。ぼくもややもすると念仏主義を採りそうになるので、自戒をこめて書いてみました。