一時期、「KY」という言葉が流行りました。空気を読めない、ということですよね。とはいえ、空気を読んでばかりだとなにもできない、ということもあったりします。今回は、そんなことを綴ってみます。
空気を読むこと、特に、この日本という社会では絶対的に必要です。日本だと、暗示的なルールとかあって、守るべきルールが言語化されていない、ということが多いです。もちろん、法律とか社則とか、破るとまずいものは明文化されていますが、そこでのふるまいや言動ということは明確ではありません。また、なんとなく自分がそれを破っていても、注意してくれる人は少なく、陰で「あの人、空気読めないよね。」と言われることになってしまいます。
そういった意味で、空気を読む、ということは必要でしょう。まずは、場の状況を目や耳で色々と観察します。その間は、あまり目立たないようにして、ルールの把握や知らぬ間に破っていることがないように気を付けます。後は、周囲の人と同じような行動をとる、例えば宴席でビールをつぎあっている、ようであれば、自分もついで回る、とかそんなようなことです。
とはいえ、いつでもかんでも空気を読む、ばかりが能ではありません。その場の空気と自分がしたいこと、というのは、必ずしもイコールではないはずです。なので、空気は理解しつつも、時にはそれに逆らってみる、というのも重要です。例えば、素敵だと思える女性がパーティーでぽつんとしています。なんとなく、周りの男性もいいな、と思いつつ、近づくことをなんとなくためらっているようです。こんな場合、どうしますか?空気を読めば話しかけないのですが、その人と近づきたい、と思うのであれば、空気をやぶってみる、というのも一つです。それと、お互い空気を読みあって、結局、遠慮しあってしまう、ということもあるので、時には空気を破る、ということも必要でしょう。
そうすると、次に考えたいのは、どこで空気を読んで、どこでやぶるか。それは、自分の中での損得判断で、ここは空気を読んでおいた方が得だ、と思えば空気を読むし、いやいやここは読んじゃダメだろう、というときは、あえて空気に従わない、という選択になるでしょう。別の言葉でいえば、自分にとってどうでもいいことは空気を読み、こだわりのあるところは空気を気にしない、ということになろうかと。
結論的には、空気は読めるが、必ずしもそれに従うが善ではない、ということです。ただ、なまじ、空気が読めてしまうとどうしてもそれがブレーキになってしまう、ということがあるかもしれません。なので、ここまで書いてきてなんですが、やっぱり、空気が読めないほうが実は楽かも。そんなことも含め、私は「世界一空気を読めない男」を目指したい、そう思う今日この頃です。