自由でありたい、と思うのは誰しも共通しているところです。とはいえ、自由を得るためには必要なもの、があります。タイトルでは一言で「力」といいましたが、それについて書いてみます。
ここでいう、「力」、ちからということなのですが、やっぱり自由を得るためには必要不可欠なことだと思います。ここでの力はもちろん、抽象的な概念であり、そこには、職業上の能力、お金、世俗の権力、組織内での地位、人望、人脈、など、物事を動かすためのすべてを含みます。これらの力がないと自由となることは難しい、のでしょう。力があれば、人はそこに敬意を払い、支配しようとは思わないものです。
例えば、物を売る、ということを考えてみましょう。売っているものがこの世に一つしかなく貴方しか売ることができない、となればどうでしょう。気に入らない客がいれば、「あなたには売らないよ。」ということも言えるし、値段も決めることができるし、自由にふるまうことができます。逆に、ありふれた商品で誰もが売っているものであればどうでしょう。売るべき人は選べないですし、値段も上げればすぐに他の売り手に流れてしまいます。そうなると、自由に販売することはできず、不自由な状況となるでしょう。
このようなことは、職場の中、世間の中、とありとあらゆるところで見られます。もちろん、どのような力を持つのか、というのはその人の得手不得手や置かれている状況によるのですが、自由を得るためには「力」がいる、ことはいえます。
ただ、力を持ったことの留意点としては、その力は未来永劫続くものではない、ということです。まず、考えられるのは自分自身の力が落ちること。これは、加齢、慢心というものの含みますし、競争相手が強くなることによる相対的な力の低下もあるでしょう。また、力そのものが環境の変化により無効化される、ということもあります。会社の中で絶対的権力者として君臨できても、その会社から出たとたん権力を失う、ということもあります。
その対策としては力に溺れないこと。力を振りかざして他の人を押さえつけると、自分が力を失ったときに一気に逆転されます。もちろん、力を維持することに努力する、ということも必要でしょう。それとともに、力の源泉を一つだけに求めるのではなく、複数求めること。先の会社での権力であれば会社の中での力の他、例えば地域社会でもいいですし、なにがしか自分の力を発揮できる場所を作っておけば、一つの力を失っても他でカバーすることもできます。
若干、政治的なところもあり、なかなか表現の難しい課題ですが、やはり、自由を得るためには「力」がいて、力がないと他者の支配を許してしまう、ということは真実としてあります。自由でありたい、のであれば、きちんと刃を研いで力をつけておく、ということは必要なことでしょう。