幸せな人生、とはなんでしょう。世間一般で言うところの幸せ、友人等近しい所にいる人の幸せ、というものがあります。ですが、ここでは、そこから距離を少しとって考えてみよう、ということです。
人の言う幸せ
世間一般で言われる幸せの形どんなものでしょうか。やや古いかもしれませんが、例えば、いい大学に出て、いい会社に就職して、結婚して、子供を作って、安泰な人生を送る、ということがあるでしょう。もしくは、なにか資格でもとって、それをもとにお金を稼ぎ、家族を養う、ということもあるかもしれません。人によっては、家を建てて一国一城の主となる、ということもあるでしょうし、起業して自分が好きなようにやる、というのも、一つの幸せの形となりますよね。
このように幸せの形、というものは、なにがしかのプロトタイプがあり、それが一つのモデルとなっている、ということができます。
自分が考える幸せ
それとは別に、自分としてどういう人生を送りたいか、なにが幸せか、ということがあります。プロトタイプに収まることがおおいのですが、そうでない場合もあります。例えば、絵描きや音楽家として身を立てようとするとか、名も知れぬ企業に就職するとか、大学に行かない、定職につかずふらふらする、世間一般の「いい条件」(昔は3高とかいいましたよね)にあてはまらない人と結婚する、とか。これらのことはどちらかというと世間一般ではあまりいいこととはとらえられていません。ですが、自分としてはそういうことをしたい、そういうことに幸せを感じる、ということがあるでしょう。
どちらを取るべきか
結論としては、「自分が考える幸せ」を追い求めるべきではないか、と思います。人から与えられた幸せに従うより、自分が考える幸せを追いかけた方が主体的に人生を生きているような気がします。また、人に言う幸せ、必ずしも自分にできる、とは限りませんよね。先に、いい会社に就職するのが幸せの形、と書きましたが、向き不向き、好景気不景気があり、必ずしも世間一般で言われるようないい会社に就職できるとは限りません。自分のいる場所、できることの中に幸せを求める、ということも必要でしょう。
とはいえ、「人が考える幸せ」をまるで無視していいか、というとそういうわけでもありません。まず、人の言う幸せ、一つのモデルになるでしょう。なかなか、自分一人で幸せの形を見つけるのは難しいです。そこで、人の言う幸せ、「人」とは、世間一般かもしれませんし、自分に近い人もあるでしょう。そこが、自分にとってうまく当てはまれば、それが自分にとっての幸せの形です。そのため、もちろん世間一般で言うところの幸せの形、自分に近い人が持っている幸せの形、もしくは色々な人に会いその人が持っている幸せの形、を集めて自分なりの幸せを見出す、ということが必要でしょう。
それと、もう一つ、近くにいる人のが考える幸せの形、これについては、少し敬意をもって扱いたい。自分の考える幸せの形、これを否定されること、あまり面白くないですよね。それは、自分の近くにいる人だって、もし自分からその幸せを否定されたら面白くありません。そのため、近くの人が言う幸せには耳を傾けるようにしましょう。そこを自分の考える幸せと調和させる、ということも時には必要です。とはいえ、近くの人が自分のその人の幸せを押し付けてくるようであれば、そこについてははっきりということが必要です。
まとめ
幸せには人の言う幸せ、自分が考える幸せの二通りに分類することができます。もちろん、自分の考える幸せを追求することが大切ではあるものの、人の言う幸せもヒントになることもあるし、また、自分から近い人であれば敬意を払うことが必要です。
なお、上記にあげた一般的に幸せではない例とは、世間的に良く言われていることであり、自分自身が必ずしもそういうように思っていないこと、付記させていただきます。