最近は、「物が無い」ということを聞くことが多くなりました。それを受けて、ふと、考えてしまったことがあるので紹介します。
まあ、このところ、「〜がない」ということを耳にします。半導体がないので電化製品や車が作れない、急激な暑さ等で電力不足になる、とか、ウクライナ危機で食料や石油がない、とか、ウッドショックということで、木材がなく家が立てられない。また、物不足の影響で、世界的に(特に欧米中心に)インフレ状態になっている、ということもあります。
こういう状態になると、いろいろなところに影響が出てきます。消費者の立場からするとものがない、というのは、辛い。これから暑くなるのに空調設備がない、とか、しんどいですよね。あと、販売者からすれば、売りたくても商品が入ってこなくて売れない、となると、生活に直結します。また、生産者であれば、原材料が値上がりすれば、売価をあげない限り損失が出てしまい、売価をあげると販売量が下がってしまう可能性がある、という、非常に辛い状況です。
ですが、ここで、この辛い状況を少し肯定的に考えてみたいです。やっぱり、コロナ禍と同じく、禍福あざなえること縄の如し、とも言いますし、いいこともあるはずです。
そもそも、こういうことが起こってしまうのは、一つには今までの大量生産大量消費という考え方に、もう一つはグロバリゼーションに起因するのでは、と思います。今までの世界的な経済成長はグローバルにサプライチェーンを構築し、世界的な分業を行うことにより、大量生産を可能にしてきました。それを大量に消費し経済活動を回すことにより、お金が各階層に流れ流ことにより達成された、という側面があります。
ですが、グローバリゼーションの元だと、世界のどこかで問題が起こるとその瞬間にサプライチェーンに問題が生じ、生産活動が滞り、物不足が発生する可能性が出てきます。例えば、中国で半導体が生産できなくなったことにより、電化製品や自動車が生産できなくなってしまった、ということです。また、大量生産ができなければ大量消費もできず、お金の流れが滞り、お金を手にすることができなくなった人が生じた、ということもあるでしょう。また、大量消費してしまうと、限りある資源を使ってしまったり、環境に負荷をかけてしまうという問題もあります。
なので、これを機にグローバリゼーションのマイナスを和らげるべく、国内生産や自給自足経済的なことにも手を戻す、とか、節電、脱石油といった技術や生活様式を確立し、また、大量消費ではなく節約、リサイクルやリユース、シェアリングでとにかくものの消費を抑えつつも、経済活動もうまく循環している、この苦境の中でそういった社会を目指せるベースを構築できれば、この苦しみも無駄ではないのでは、、と考えるところであります。
もちろん、中短期的には、物が無い、それが故に経済が回らない、というのは、死活問題ですし、とても苦しいです。でも、この苦しみの中から、未来への道筋が開けるのであれば、それは社会にとって意義のあることだと考えます。